療育から学んだ私にも大切なこと

人との関係や気持ちが楽になるヒントがいっぱい

先週末、東大の中邑賢龍先生の講義を受けてきた。放送大学の面接授業の二日間。中身が濃くて、言葉にしてアウトプットします

 

先生は東京大学先端科学研究センターのセンター長。先生曰く好きなことを勝手にやる人間が集まったいるところ、だそうです。

そこでの ”異才発掘プロジェクト” は頑張るのに制止される子、頑張ると浮いてしまう子等、異才のユニークさを潰さずイノベーションに結び付ける教育の探求をしている。

 

先生曰く「今不登校で家に引きこもっているような子、そういう子がこれからの日本を作っていくのではないかと思っている」そうです

その思いの奥は深い。今の教育制度への問題提起でもあると思います

 

二日間8限の授業の中身は濃くて濃くて、まとめるなんてとても無理ですが

印象に残っていることから出していきます

 

今の企業に課せられた障害者枠について

週に30時間以上または20時間以上の勤務が補助金の所定労働時間になっているが、障害をもっている人には大変難しい

極端にいったら一日1時間2時間の仕事なら働ける人は沢山いる。制度が実情にあっていない。企業もこの制度を利用して雇いたくても働く人がいないということが実際起きている。

たとえば、30時間を働ける人 30×1 ではなく ひとり1時間×30人

あるいは 私が週に1時間誰かに仕事を頼む 一緒に庭仕事をしてもらうとか畑仕事をしてもらうとか、コンピューターが得意な人にソフトの使い方を教えてもらうとか

そういったプロデューサーとしての役割がこれからの福祉の専門家には求められるのではないか。

という話。働き方の幅が広がって皆が生きやすくなるのではないかという可能性を感じました。当たり前と思っている働き方を見直すチャンスが今なのかもしれませんね!

今日はここまでにします。少し頭が軽くなりました

怒りの表現は出しておさめる

療育の現場でお世話になった作業療法士のN先生は、療育現場での経験が豊富で、子どもの発達について、いつも的確にアドバイスしてくれました。

3歳女の子Aちゃん(仮)は、言葉の表出がなく表情も乏しいお子さんでした。いつも心配なほど静かなAちゃんでしたが、嫌な事、不快な事はあるときだけは、泣いて怒って、なかなか気持ちが治まらないことが度々ありました。

そのことに対するN先生のアドバイスは、「やだ、やだ、やだ」と私達大人が言葉に出しながら、座っているAちゃんの足首を持って床にドンドンと叩きつける(もちろん力を加減して)というものでした。要するに、子どもが思いが通らない時によく行う地団駄踏む動作です。

それを聞いたときには、少し突飛な感じがして、嫌がるのでは?効果あるの?と正直思いました。しかし、実際にAちゃんが怒って泣いて半分パニックになっている時にやってみると、Aちゃんの気持ちがすうっと治まったのでした。

それでわかったのは、Aちゃんは気持ちをどう表出していいかわからず、気持ちが治まらなかったのだということ。背中を摩ったり、言葉をかけたり、じっと見守っていたのでは、Aちゃんの感情を出す手助けにはならなかったということ。床に足をドンドンしたこと、怒りを体で表現したことで、はじめて気持ちが治まったのだいうことです。いやだいやだと大人が言うことで、共感してもらえた感覚もあったのかもしれません。その後も度々、この方法で気持ちが治まることがあり、この頃から、少しずつ少しずつAちゃんに表情が出はじめ、ふっと笑顔になることも多くなり、私達職員のそばにいることが増えてきました。

大人ほど言葉を操れない子どもは感情をからだで表現する。地団駄踏みも表現のひとつ。思春期の子ども部屋の壁に穴があいていることも、また必然もしれません。 

さて、そこで思うのは、大人はどれだけ自分の負の感情を表に出せているだろうかということです。私自身も、思っても仕方ないことは、そう自分に言い聞かせて胸に収めることが良いことと思ってきました。でも、表に出すことはおろか、感じることすらしてあげなかった感情は、結局は昇華されずにくすぶって、他の愚痴に転嫁されたり、体調に現れたりしました。

大人だって大人だからこそ、自分の感情は大切に扱いたい。必要を感じた時は、溜めずに、負の感情も表現していった方が良いのだと気づきました。私のやっている方法については、別の機会にまた紹介したいと思います^ ^




 

 

 

 

 

 

 

先の見通し

前回は、終点を捉えることの意味を書きましたが、この終点の理解は、その少し先のスケジュールの理解(先の見通しを持つこと)にも繋がっていくようです。

先の見通しがわからない世界を想像してみたいと思います。 例えば、授業。45分で終わって帰れるとわかっているから、私達はじっと座って聞いていられるけれども、その予定が全くわからなかったとしたら、どうでしょう。いつ終わるのかを質問する手段もわからない、しかも、面白くない授業だとしたら、苦痛で不安で落ち着いて座ってなんかいられない気がします。それどころか、どうにか脱走することを考えてしまいそうですし、それを阻まれたらパニックにだってなるかもしれません。落ち着きのない子の中には、それが理由のお子さんもいます。

療育では、対処の方法として、次の活動を写真や絵で提示していました。おやつなら、おやつのイラスト等。または一日の主なスケジュールを朝、カードで提示することも必要に応じてやっていました。そうすることで、人が変わったように落ち着くお子さんがいます。そんなとき、こちらの方が ”いままで不安だったんだ、ごめんね" という気持ちになります。このカードを生活の中で取り入れているご家庭もあります。

自分の育児を振り返っても、これに近い事を知ってから楽になった経験があります。2歳過ぎから3歳くらいの自己主張をはじめる頃、全く言う事を聞いてくれなくなり途方にくれました。出かける時など「早くして」と何回言っても超マイペースで支度に時間がかかる。そんなとき「バスに乗るの楽しみだね、行こう」とか「今日は保育園で○○やるんだって」というとすっと、靴を履く。3歳くらいで会話は成り立ってくると、いろいろとわかっているように錯覚してしまいますが、先の見通しを大人のようにはっきりと持てていないので、先の楽しい出来事を聞くとさっと動けるのだと思います。私はこれを他のお母さんの声掛けから学びました。

 

それから、私自身も見通しを持つことで出来ないことが出来たという経験があります。それは何か苦手なことに取り掛かる時に、何分間と時間を区切るという方法です。私は掃除があまり好きではなく、それでいて、やるならとことんやりたいので、中々取り掛かれない。そこで、完璧に出来なくてもいいから20分間はやる、20分で止めていいと決めると、気軽に始められる。だいだい30分くらいはやってしまい、時には時間を忘れて50分くらいやってすっかり綺麗になり、とても爽快な気分になったこともあります。そのおかげか、今は掃除はきらいでなく、むしろ好きになりました。同じような経験をお持ちの方も多いかもしれません。

 

先を見通せることの大切

先が見通せれば、安心して過ごせること、力を発揮できること

を子どもたちから学ばせてもらいました

 

始点と終点② ”お~し~まい” というケジメ

療育に携わって ”終わりがわかることが大切” というフレーズを聞いたときに、私はう~んと唸ってしまいました「わたし、それ、出来てないかも・・」と。 例えば、一つの行為から次の行為に移る時。靴を揃えるとか、椅子を引くとか。一度物を基の場所にすべて片付けてから次にいくとか、あげればキリがありません。それから、20代のとき、習い事を辞めるときにきちんと理由を伝えられずに辞めたことも思い出しました。始める時は勢いよく始めるけど、終わりは、、、上手く出来なかった。そんなことがぐるりと頭の中で思いだされ ”そうか、終わりをきちんとするって大事なんだなあ” という再認識しました

 私事ですが、3月30日生まれで体も小さかった私は集団生活に入った当初、周りについていくのが精いっぱいで、次のこと次のことに気持ちがいって、きちんと終わるなんて考えていたら、みんなについていけなかった。もともとのんびしした性格もあると思いますが、子ども時代の影響も大きいと思っています。そんな私が、大人になって今一度 ”終わりの大切さ”を意識することで、私は自分の中がとても整理される感覚がありました。

” 物事の終わり、一日の終わり、ひとつのひとつの終わりをもうちょっと大切にしたら、また少しすっきり生きられそう" そんな気づきでした

 

療育では、絵本を読み終えた時、ひとつの活動の終わりに、ジェスチャー(両手をひろげて前に出して握りながら下ろす)をしながら「お~し~まい」と伝えていました。私は、無意識に、日常生活できっぱり何かを辞めたいとき、これをやることがありますが、不思議とふんぎりが着きます。人目があったらエアでも効果あり。

宜しかったらお試しあれ^^

 

始点と終点①

今回は「始点と終点」の話から、子どもの発達を理解すると、小さな子が散らかしてもイライラせずにいられるヒントがある、という話です。

 

療育には普段見なれない様々な教材があります。それぞれの教材(おもちゃ)に、発達を促すための目的があるのですが、そのひとつに「終わりがあるという感覚を理解する」がありました

 

何かを持ち、またはつまんで手を一方向に進めてみたらある時点で止まった。その繰り返しで「始まりがあり、終わりがあるということを理解する」という感覚が運動(手を動かす)から入ることをねらったものです

下の教材のようなレール式のから、輪投げのポールにドーナツ型のものを落とすおもちゃ、良く見る型はめも、ぴたりとはまって終わるので、終点を感覚から理解する教材ということです

 

(画像お借りしました http://www3.kcn.ne.jp/~takanami/maruyosi.htm  )

 

この終点をまずは運動感覚で理解することが、子どもの発達を内から外へ広げていく上で、とても重要となります。発達心理の先生によると”一つだった結び目が二つになる”と表現していました。自分から出た行為(手を伸ばす、触る)等の行動に反応(終点)があることを感じ取ることで、そとの世界、他者や周りの物へ関心(まだ感覚レベル)が広がっていく、ということです

 

 

前置きが長くなってしまいましたが、1歳半くらいから物を投げる、散らかす、ばらまくようになりますよね、、、これが「部屋が散らかっている、片付かない」とおうちの人をイライラさせます。私もそうでした。疲れている時は、終わりのない片付け地獄に感じた記憶があります。

 

この散らかし行為、小さなうちは、終点を感じて五感、運動機能を発達させている行為、と言えると思います

 ぽ~んと、定めることもなく投げたブロックが床に着地する。何回も繰り返すと周りにブロックが広がるという世界が視覚的にも入ります。だから楽しいし、繰り返す

発達の必要があっての行動は、本当にしつこいくらい繰り返します。

 決して、散らかしてやろうとか、乱暴であるとか、いうことではなく。

 

そんなときの対処法は、

何か入れ物を差し出して「い~れ~て」と楽し気に声をかけるとポンっと入れてくれます。そしてお互いにニッコリ。(散かし屋から片付け屋に変身する瞬間です)

またひとつおもちゃを渡して、入れ物を指さすとまたポン。ニッコリ。

 その後はお母さんも一緒に、ポンニッコリをやると、瞬く間に片付きます

 ただ、そのままその入れ物を置いておいたら、またザ~っと全部出すか、またひとつづつポイポイ投げるますよね。そんな光景を見たら、そこが今楽しい発達のポイントなんだ、ということです。その時期の子どもにとっては大事なお仕事なのかもしれません

 

 そうは言っても大人の事情もあります。お母さんの片付ける苦労との折衷案としては、細かいものでしたら、数を減らすこと。買ったときに30個入っていたブロックなら、この段階でしたら10個でもいいかもしれません。 今日は散らかしてほしくないという日は、細かいおもちゃが仕舞ってしまうのもいいと思います。

 

他に、この成長段階のお子さんが好きな遊びを一つ。

何かを「どうぞ」と言って、大人の手から子どもの手にうつし、次に「ちょうだい」と両手を出してみる。お子さんがものを差し出してくれたら「ありがとう」ニッコリ受け取る。そしてまた「どうぞ」と繰り返す。という単純に思える遊びですが、とっても楽しそうな表情を見せてくれます。

 布を持たせて、端を大人が引っ張るという、小さな綱引きも楽しんでくれます

 

どれも他者の存在、他者とのやりとりが、運動感覚、視覚、聴覚から入ってきて楽しい遊びとなっているのだと思います。

 

 芽生え始めた感覚が刺激を受けて、きらきらと輝いているのを感じます

難しい話のようですが、きっと昔から、赤ちゃんや幼児の喜ぶ顔が見たくて先人があやし遊んでいたことが、子どもの発達を促すことになっているのかもしれませんね

 

 

 

 

 

 

”いやだ”という意思表示

発語が遅いお子さんの中には、いやだということの意思表示が出来ずに、本人も家族も大変な思いをすることが多々あります。 

それでも嫌なものは嫌なので、

大声を出したり

部屋から逃走したり

泣き出したり

かくれたり

自傷したり、パニックになることも

 

もし自分が、断る術がわからないとしたら、

人生とてもしんどい、という想像をしてみたい 

どんなにつらいか、息苦しいか

それは奇声のひとつも発したくなるかも

 

そんなお子さんとのやりとりの中で、これって私たちも同じではないかと思ったのでした。

いつも、人に何かを勧められたり、頼まれて、はっきり嫌!て言える(嫌の言い方は別にして)人って、あんまりいない。わたしも含めて。

例えば

残業だって断りたいけど断れないし、、

人の誘いを断るのも結構気を使う

こころの中で、悲鳴を上げたい時だってある。

 

そう思うと、当たり前のことが出来ないという感覚で療育するのはちょっと違う、意外に難しいことにチャレンジしてるよ、という気持ちになってきます

(周りの大人は姿勢として、子ども達に対し”出来て当たり前のこと”を伝えているという感覚ではなく、実は私たち自身も苦労している点と重なるという事に気づくことが大切だと思います その方が理解し合えるし実践が進むと感じました)

 

 

 

私たちにとっても

嫌な時に嫌な事を断ることが、社会で生きていく上で自分を守るために、もしかしたら、一番大事なことかもしれない

 

 自分がもしNOというのが苦手なら、そこが苦手なんだよな~とまずは自分を受容

 

もし、苦手ではないけれど、ハッキリ言わないことで自分も周りからもわかりずらくなっているとしたら、NOの大切さを今一度思い出したい

 

いつもNOといえるわけではないのが現実ですが、NOといえる手段と自由を私たちは持っていることを、子ども達とのやりとりから思い出し、私自身は自分の気持ちが少し自由になった気がしたのでした

 

 

療育からの自分の気づき

療育を6年間現場で経験した保育士です

「療育センター」「発達障害」「知的障害」というと、特別なことをしている、と感じるかもしれません。確かに、心理の専門家や作業療法士言語聴覚士等と共にその子さんのニーズに合わせて支援をしているのですが、そこで日常行われている子どもとのやりとりから、私達の普段の人間関係や社会生活にも共通するものが沢山ある、と私は感じていました。

 

特別なようで特別じゃない

私も含めて、そういうの苦手な人って結構いるよねって思う場面が多かった

ボーダーという言葉もあります

 

皆同じように、社会に順応しようと日々頑張っているけれど、同じにすることに苦労していることがあるかもしれない。


苦手はことを自分自身が良しとすることで

自分に人に優しくなれて、障害が特別でなくなり、皆が生きやすくなるのではないかという願いをもって、このブログを開設しました